⑯今後の思い
花パソを立ち上げてから18年が過ぎ去った。
10年ひと昔といったものだが、あまりのICTの進歩に1年がドッグyear(7年)といわれ最近でマウスyear(18年)に例えられるほど
進歩が速い。
18年前にはパソコンしかなかったものがタブレット、スマホが誕生し、今はPC、タブレット、スマホが同列に並んでいる。
中でもスマホは普及率が凄まじくなくてはならないものとなっている。
インターネットも様変わりした。電話回線を利用した「アナログ回線」からADSL~光ファイバーケーブルを利用した「光回線」、
携帯電話のインターネット接続が普及しました。
他のものと比べると進歩がすさまじいのがNET社会です。
10年前にはオンライン会議や「在宅勤務」等だれが想像できたでしょう。
「ついていけへんわぁ!」という言葉をよく聞きます。
本当に私たちがテキストを作るときも講座のためにテキストを作ったのに講座の日にはもう、更新されていて
画面が変わっています。講師泣かせです。
シニアが戸惑ったり、操作に困っているのもよく理解できます。
でも、いまどきスマホは必需品になりつつあり、使えないと困るのも事実です。
今は第5世代といわれます。専門家はすでに第6世代に向かっています。
あと5年後の世界は今と違って大きく変化しているに違いありません。
車は無人かロボットが運転しているかもしれません。
車と同じように空を飛んでいるかもしれません。
脳以外は老化とは無縁かもしれません。
最近ではチャットGPTが世のなかを変えようとしています。
大阪万博では現金は使えません。すべて電子決済です。
高齢者も知らんぷりでは済まなくなりました。
でも、怖がるのではなく時代の進歩を享受しましょう。
残りの人生、大いに楽しみましょう。
そのお手伝いができたらうれしいです。
終わり
⑮2023年3月25日に「第4回スマホ&タブレット合奏コンクール」がひと・まち交流館で開催された。
コロナの影響で3年半ぶりの復活だ。
3年半というのは高齢者にとっては大きな年月だ。
その間、コロナで活動停止になって解散になったグループもいるし、高齢化で解散になったグループも沢山あった。
コツコツと細長く練習を続けてきたグループもあった。
おもえば2011年にタブレット合奏を始めてから交流会、コンクールと10年以上続けてきたことになる。
「継続は力なり」を実感した今年のコンクールだった。
最初は全国のITに詳しい人に声をかけた。
タブレットで合奏してみない?と。
2014年には全国から京都に集まって交流会を始めた。10年近く続けているといろんな弾き方やアプリの使い方、音の出し方、合わせ方そのスキルの上達は格段に進歩していた。
自分たちだけで演奏するのではなく他のグループとの交流はその時はわからなくても確実に進歩していた。
私たち【プラチナバンド】も技術の未熟さを痛感した。
これはやっぱり、コンクールに参加したおかげだ。「井の中の蛙、大海を知らず」
いろんな参加チームと交流できてプロのすごさも思い知った。
今、メンバーが4人。できればもう1人仲間が欲しい。
基本的にはタブレットを通じてICTにも触れ、音楽を通じて楽しく仲間と演奏できればいい。
高齢者施設訪問など時々は自分たちの演奏の成果を披露できたらいい。
ICTの世界は進歩が著しい。楽器アプリもしかりだ。
益々タブレット合奏から目が離せない。
⑭ipadとの出会い
今から9年ほど前、ipadが発売されてから1年ほどたった時。
NTT西日本の林明生さんの紹介でNPO法人支援機器普及促進会の理事長高松 崇様とお会いした。
以前よりipadに興味があった私にそれならいい人がいると紹介してもらったのが高松さんだ。
今でも忘れなれないのが京都駅前のスターバックスで3人でipadの勉強をしたことだ。
高松さんは主に全国の障害児学校を回っておられて今までのPCの教え方とは違ったipadでの
学習を試みようとされていた。
指でタッチするだけで絵をかいたり、ゲームができたりと今までのやり方とは全く違う方法に
衝撃を受けるとともにその時には本を読んだり、池で魚をタップするとポチャと音がして
魚が逃げたりそのリアルさにビックリしたものだ。
今はバーチャルの時代。VRだの仮想空間だの現実との区別がわからなくなってきている。
アニメにしてもリアルすぎて人とキャラクターが融合しているものまで現れて
わけがわからなくなってきた。テレビ番組にしてもフェイク(偽物)と本物を当てる番組も登場してきている。
それくらい現実では起こりえない出来事も監視カメラの登場でビックリするような出来事を
見ることができるのとあたかも本当にあった出来事のように偽ビデオを作成することもできる。
この世の中は夢か現か?
だまされないように真実をみる目を持つことが必要かも?
⑬任意団体花パソとしてスタートしたがNEC、マイクロソフト、NTT西日本と
大手企業と取引ができることになったことでNPO法人として登録しなけれべば行けなくなった。
最初から数えるともう、18年になる。
今はまた任意団体に戻って伏見区役所の北隣にある喫茶店の一室を借りて
無理なくパソコン教室を運営している。
「70歳まで働くの」そう言っていた林さんの言葉を聞いてあきれていた私が
今はもう、72歳だ。
時代はパソコンからスマホに変わり、PC、タブレット、パソコンと
多種多様になった。
以前はiphone、アンドロイドと2つの使い方だったが、アンドロイドの機種多様に簡単スマホ、メーカー、機種ごとに使い方が違い講師泣かせだ。
若い人は感覚的にスマホを使いこなせるがシニアは突然現れたスマホに振り回されている。
世の中がスマホがなくてはならない存在になり、シニアは置いてきぼりにならないよう必死だ。
急激な世の中の進歩についていけない。だって私たちの子供のころにはテレビが出てきて
街頭テレビに群がっていた時代だもの。
今はレストランで食事をしようにもタブレットで注文するし、病院だって
清算をはじめなんでも器械が幅を利かせている。
最近では「ChatGPT」とか「Bard」とか急に注目を浴びだした。なんでもこれからの
ICTがchatAIによって大きく変わるらしい。
便利になるんだろうけど段々わけがわからなくなっている。
まあ、ボケないようにアンテナだけは張って脳の活性化を!!大変だ。
⑫任意団体花パソとしてスタートしたが林さんの行動力が活かされたのは
東京でのイベントに参加した時に当時NECの社会貢献室の室長が来られていてパソコンを教える人グループを認定してパソコン講座を開いてもらうというものだった。
実績のある名だたるNPO法人が選ばれている中で最後のひと枠に花パソが選ばれたのも
林さんの情熱と押しの一手だったように思う。
東京から京都まで花パソの様子を見に来られたNECの社会貢献室長が
半ば呆れられた様子で「異例の抜擢ですよ。とにかく頑張ってください。」と言われたのを思い出します。
その時に講座を受けられた方がのちの花パソ講師として活躍することになります。
花パソの講師はそのほとんどがシニアで教えたこともない人たち、花パソの生徒さんだった人が多い。
今思えば地方テレビに出たり、ラジオに出たり、イベントに参加したりたくさんの思い出が残っている。普通の主婦では初めての経験ばかりで社会勉強になった。
私は方向音痴でほんとによく道に迷う。あきれるくらいだ。
でも、パソコンには強い。
林さんは小さなパソコンの中で何がどこに保存したのかよくパソコンの中で迷子になっていた。
人には向き不向きがあるものだとつくづく思った。
私は技術的なものには強かったが林さんは営業に向いていた。
「私はパソコンが苦手でそれを教えることが苦手を克服する一番の近道」とよく言っていたがその前向きな姿勢は尊敬に値するがやっぱり向いていなかったと思う。
年がいって苦手なことをするのはストレスがたまる。
「うちの家系は長生きの家系、だから70歳まで働くの」と言っていた林さんが63歳の若さで
亡くなったのも惜しまれると同時に人生なんていつどうなるかわからないということを
つくづく考えさせられた。
⑪10年間ほど大阪の健康産業会社に勤めた後、地域のITボランティア団体に参加した。
今でもNPO団体として活動しているグループだが、そこでは久御山町の某PC講座を担当したり、生命保険会社のPC勉強会を担当したりしたが
同時に地域役場が管理しているITボランティアグループに所属したりしていた。
そこで花パソを始めるきっかけになった林さんと出会うことになる。
ボランティアをしているうちに自分でもPCを教えたくなり知り合いの紹介で丹波橋の学生マンションの一室を借りてパソコン教室を始めることにした。
妹の「パソコン教室を丹波橋で始めるなら何かできることで地域に社会貢献しないといけないよ」という言葉に後押しさされ
みんなで楽しめるハイキング等を企画した。姉や妹が下見に行ったりして協力してくれた。
その時参加してくださった方とは今でもお付き合いが続いている。
また、その中にのちの花パソの事務所を貸してくださった吉見さんもおられたのがご縁だがその時は思いもしなかった。
丹波橋の学生向けのマンションで1人でパソコン教室を開いていたが
地域役場のボランティアの初めての集まりで一人目立って自己主張の強い人がいた。
その人が会議が終わってから私のところに来て個人的にパソコンを教えてほしいといわれた。思ったことを躊躇せず実行に移すその行動力にビックリした。
のちに花パソを始めるかどうか、やっていけるかどうか迷っていた時にも一緒にやろうと
後押ししてくれたのも林さんだ。
林さんと2人で伏見区東町の一軒家の一階部分を借りて2人でパソコン教室を始めた。
これからの人生、もう一度ひと花もふた花も咲かせようという気持ち方から
花とパソコンを合体させて花パソという名前にした。ロゴも花が咲いている図柄だ。
以前勤めていた職場のIT化についていけず苦戦していた林さんは
シニアにやさしいパソコン教室を目指し、私は人に教えることでやりがいを見出そうという
目的をもって花パソがスタートした。
この2つの目的は
「 この法人は、子育てや仕事を終わったシニア女性が、地域社会の有用な人的資源であ
ることを自覚して、生き生きとした人間性豊かな生活を営める社会の創造に寄与すること
を目的とする。
パソコンを生かして個人の能力を社会に還元し、起業参加や子育て支援を行うための情報
技術を利用したコミュニケーションの場や学習教育環境などのプラットホームを提供し、
そのための IT トレーナーの養成を行う。
地域の方々と共にいきいきと自立した人生を送ることができる活動を行う。」という
今でも花パソの定款に記載されていて花パソを始めた2人の気持ちが活かされている。
⑩子供も大きくなってそろそろ腰を落ち着けて仕事をできる環境になった。
そのころ短期派遣で行っていた某健康産業会社から長期の事務(コンピューターの仕事)としてのお誘いがあった。
お世話になっていたテンプスタッフにお話しして快く送り出してもらえた。
そこでやめるまでの10年間コンピューターと関わる仕事を担当した。
当初入ったときはオフコンと言って会社の商品の売り上げなどはコンピューターが処理していた。
売上金額実績、商品別売上実績など会社の重要なデータはプログラムされたコンピューターが処理していた。
会社が大きくなるにつれ来月にはどのくらい売れ、どの商品をどのくらい生産していくかなど
実績以外に予想売上も大事な要素になってきた。
各営業所の受注予想、キャンセルなどの変化が即工場生産に影響する。
それらをいちいちプログラムするのは大変なのでパソコンが売上予想にかかわるものを処理することになった。
最初、2,3台しかパソコンが会社になかったのに辞めるまでの10年間で300台近くになっていた。
MS-DOSの世界からしばらくするとWindowsの世界になった。
Appleのマッキントッシュが現れ、Windowsの世界のなったときパソコンの世界が大きく変わるだろうと
衝撃を受けたのを覚えている。
マッキントッシュのPCは今のスマホアプリの原型だ。画期的だったにも関わらず、日本語変換がうまくできなかったため
これでは日本社会に通用しないなと思ったことを覚えている。
そのころの日本ではジャストシステムの日本語変換が主流でやはり素晴らしかったので
誤変換の多いマッキントッシュはビジネスでは使えないと思ったが今やマイクロソフトのIMEが
全く一太郎と同じように変換できる。マイクロソフトのような大きな会社には日本の小さな会社は太刀打ちできないのだ。
⑨派遣会社で短期の仕事をしていると派遣先の担当者から直接契約の話がよくかかるようになった。
派遣先の会社にしてみれば派遣会社に払う金額が浮くので直接契約するほうが得だ。
最初は年のいったおばはんが来たなという顔をされたけど終わるころには気に入ってもらえて
会社に入ってほしいという声が聞けるのはうれしかった。
30年前でも女性でも年がいってても仕事をきちんとできればニーズがあったのだ。
それは今でも同じことだと思う。時代は女性に味方してくれていると思う。
そして年も関係なくなってきた。いくつになっても前向きな姿勢と頑張る気さえあれば、スタートは
切れる。夢は見るものではなくつかみ取るものだ。そういう人は周りの人も応援してくれる。
残りの人生、夢を見続けられるよう落ち込みそうな自分に叱咤激励している。
子供も大きくなり、孫は大学生だ。人の世話になるばかりで必要とされなくなった。
子供の言うようにおとなしく機嫌よく好きなことをして暮らしていくのが子供孝行のようだ。
でも朝起きて寝るまでおいしいものを食べて好きなことばかりするのもつまらない。
やっぱり、社会の一員として生活を過ごしたい。
無理をせず前向きに社会と関わっていくつになっても必要とされる人でいたい。
⑧自己紹介
当時の派遣会社は結婚して辞めた女性がキャリアを生かして再仕事をするというものだった。
ですから20代後半から30歳代 経理ならともかくパソコンでは私のように40代というのはいなかった。子供のこともあるので短期と長期があったが短期を選んだ。
短期というのは忙しいので人出が足らないので即戦力を要求された。
2、3日の仕事がほとんど。いつも新しい職場で働くことになる。
例えば選挙の時のデータ入力、繁忙時期のその会社独自のソフトのデータ入力、資料の作成等。どこでも最初に行ったときの担当者の対応が「わぁ、すごいおばはんが来よった。大丈夫かなぁ。」もろに態度に出てた。
2,3日から1週間の仕事だったのでいろんな会社に派遣された。当時***の戦略室は部屋にカギがかかっていていろんなプロジェクトが動いていた。ビックリしたのは始業時間やお昼休みのベルが鳴らず、いつ来ても帰っても仕事さえこなせばOKということだった。上司もいず1人でいくつものプロジェクトに参加していてプロジェクトリーダーがいるだけ。Aさんは勤務時間中に英会話講師を呼んでいて勉強していたり、Bさんは新聞を読んでいたり。Cさんは奥さんが出産中で夜出勤していた。
今では当たり前の時差出勤も30年も前の日本では異色だった。
エリート集団の***銀行はそのころから進んでいたのだ。
そんなわけで担当者とも最初、仕事の要領を伝えられただけで終わっても顔も合わさないこともあった。ただその日の進捗状態をその人の机の上に書いて帰った。
期待された以上の仕事をするようにしていた。そんなわけで何処に行っても最初は不安がられたけれど次からは指名で入ることが多くなった。派遣会社の第1回目の表彰式ではパソコン部門に私が選ばれた。
その当時の経験から「女は年ではない。技術があればいくつになっても重宝がられて仕事はある」という確信を持つことが出来た「子育て後や退職後の女性がもう一度パソコンを教えることで花を咲かせましょう!」は花パソの創立目的の1つであると共に名前の由来となっている。
⑦自己紹介
23歳で結婚、24歳で出産と当時では多分平均。
会社では25歳と過ぎるとお局さんといわれていた。
今考えるとまだまだ若いのになぜか25歳を過ぎた先輩は老けて見えた。
時代の価値観てすごいなぁと思う。
2人の息子の子育てに忙しい日々の中でも内職(トースターのビス止め)して家計を助けた。
ITとは全く縁のない生活の中で時代は流れ子供たちが大きくなったころには世の中も大きく変わり、パソコンが現れ出した。
20代のころの大型コンピューターから各企業にパソコンが導入され出した。
長期間家庭に入っていた間に世の中はどんどん変わり、いざ働こうとすると何もできない自分がいた。
大型コンピューターのオペレターをしていたせいで普通の女子事務員のように伝票もかけない、電話もとれない、お茶もいれることが出来ない。
ないないづくしの私がとった行動はコンピューターの学校に通って技術を身につけることだった。
その時35歳。
まだ,MS-DOSの世界だったけど一太郎やマルチプランといったソフトも出来ていた。ひらがな、漢字?16進法でコンピュータと対話していた私には新しい世界だった。
でも、びっくりすることに操作方法を覚えることだけでパソコンの基本的な考え方は大型コンピュータと同じなのですんなり出来てしまった。
自信をつけた私はテンプスタッフという派遣会社に登録した。
テンプスタッフを選んだ理由は社長が女性だったということ。
アート引越センターの寺田社長と同じく女性社長がまだ珍しくマスコミにも大きく取り上げられていた。本も出版されていて海外で働かれたりとその行動に感銘を受け働くならその人の会社でとあこがれていた。
⑥パソコンと私
前(自己紹介④)にも書いたけど高校卒業後、普通に一般事務で2,3年働いて結婚してなんて特にこれといった特技や目標もなかった私は考えていた。それが時代の流れか企業にコンピュータが導入されるようになり、そのはしりにたまたま機械計算課に所属されてしまった。
配置を決める時に適正試験みたいのがあったけどその成績が良かったのか、ブスだからあまりに人目につかない部署にまわされたのかわからないけれど
前年に開設された機械計算課に配属されたのがコンピューターとの出会いとなった。
当時はFAXもなく、データはカードにパンチ(穴をあける)してデータとして読み込むというものだった。
磁気テープとか磁気ディスクと呼ばれるものがすごく大きく、ディスクは持ち上げるのも大変だった。
コンソールといって中央演算装置は16進法で表示されていたし、穴の開いたテープやカードを読み込みプログラマーが書いた処理プログラムをコンソールに命令を入力しコンピュータに仕事をさせるのにテープやディスクを入れ替えるのが仕事だった。
今思い返せば日本で最初の女性コンピュータオペレーターだったとあとで聞いた。なにも出来ない私にプログラムやそんな大事な職種に抜擢してくれた課長に恩返しすること無く人間よりもコンピュータさまさまの状況下の元、ガラス張りのコンピュータ室に閉じ込められ人とも接しない仕事に嫌気がさし、2年ほどで家が引っ越したので通うのがしんどいという理由で辞めてしまった。
今のITの基礎を作ってくれた課長さんには感謝しかないが当時は仕事が出来ることでこき使われるみたいでいやだった。今だったらキャリアウーマンみたいでかっこよかったのになぁ。
⑤24さいで結婚!今ならまだまだ若くて結婚なんてまだまだと言われる歳だろうなぁ。
当時は25歳をすぎるとお局さんと言われていた。今思えばいかに世間の目を気にしていたかわかる。やりたいこともなく普通に結婚して子供を産んでと何にも自分の考えを持っていなかった。男の子2人に恵まれ、最初の子を出産した時、男のこだったので義母が凄く喜んだのを思い出す。当時は男の子の値打ちがあったんだなぁ。今なら女の子のほうが話し相手してくれるし、一緒に買い物にも行けるし、羨ましい!
今年の正月に息子たち家族((関東在住)に久しぶりにあったとき私の足が悪いのを気遣ってかコートを着せてくれたり、荷物を持ってくれたりいろいろと世話を焼いてくれた。「年寄り扱いせんといて!」といったら「年寄りやんか」といわれた。
そうか、世間から見たらもう年寄りの部類にはいってるんや、健康に気をつけて子供たちに迷惑かけんようにしなあかん。頭ではわかっているのに最近、やっと好きなことが出来る様になった。
まだまだ社会に恩返し出来る!年に縛られず今迄出来なかったこと(大した事じゃない、芝居を見たり、美味しいもの食べたり、旅行に行ったり)好きなことするぞ~。
自己紹介④
④高校卒業後、企業に普通に事務としてOLになるつもりで就職。
適齢期になれば結婚して家庭に入るなんて普通に考えていた。
ところが普通の一般事務で入ったのに配属先は”機械計算課”
丁度そのころ日本ではコンピューターがどこの会社にも導入されたばかり。
その時の1ケ月のお給料が3万円ほど。
大型コンピュータのレンタル料が300万円ほど。
いかに貴重なものだったかわかる。
コンピュータさまさまで空調管理も厳重でコンピュータ室に入ると温度、湿度が一定に管理され私達は冷えない様ズボンをはいていた。
花のOLを目指していたのにコンピュータ室に閉じ込められズボン姿でコンピュータ相手に仕事。
それでも若い人たちばかり。土曜日は半ドンといって午前中で仕事は終わり。
夏は午後から淡路島に泳ぎに行ったり、ボーリングに行ったり若かったんだぁと思う。疲れ知らずで遊んでたもの。
仕事帰りも心斎橋に繰り出し、買い物をしたり、食事をしたり。
仕事も一度聞けばバッチリだったのに。
今はノートに書いていても忘れる。出掛けるのも翌日の予定を考えて無理も出来なくなった。
自己紹介③
高校は大阪の普通科
姉が通っていたので同じ高校へ
両親が教育に無関心だったので滑り止めの私立高校も受けさせてもらえず、絶対受かるだろうと今まで受けた模擬試験でも最低の点数でも受かる高校を受験。今思うともう少し、チャレンジすればよかった。
クラブは図書クラブ。子供たちに言わせると一言「暗~~」こちらも運動クラブに入ってもっと青春すればいればよかったと後悔。
でも、その時期沢山の本をよむことで一生指針となる本に出合えた。
今、同じように本を読んでもそんなに感動しないような気がする。
何でも若い時にしておくべきだなぁと痛感。
でも、何かを始める時、歳をいってるからとあきらめる必要はない。その時があなたの適齢期なのだから。
いくつになっても好奇心を持って!
自分に言い聞かせてるけど友達のいった「おまけの人生」に突入。どうおまけの人生過ごそうか?
自己紹介①
昭和25年4月生まれの71歳。
まだ71歳もう71歳。
皆さんもそうだと思いますがあっという間に歳をとってしまいました。
ここ数年、足の骨折などいろいろあって急に歳をとったような気がします。
皆さん70歳になると体の衰えを感じると言われるとおり、身の始末の事を考える様になりました。
でも80歳になっても90歳になってもお元気でいきいき過ごしておられる方もいます。
最近は断捨離にはまっていますが残りの人生社会に恩返しできるようなことがしたいです。
そのためには健康でいなければいけません。
その一つに玉ねぎドレッシングに凝っています。トマトに手作り玉ねぎドレッシングをかけて毎日食べています。